昭和の時代に入り、時代は少しずつ戦争の時代へと突入していきます。様々な困難に直面する中で、それまでの華やかなキャンパスの雰囲気は一変していきますが、決して変わらなかったものがあります。
それは、先生の生徒たちへの思いと生徒たちの「学びたい」という気持ちでした。

正門

1927(昭和2)年には、学園の創立10周年を記念して「記念館」が建てられています。建設にあたっては、卒業生や保護者からの多額の寄付が集められ、完成した記念館には図書室や大教室が設けられるなど、教育施設の一層の充実が図られました。

昭和3年頃の高等女学校生

1928(昭和3)年頃の高等女学校生

また、深緑色のネクタイが特徴的なセーラー服が高等女学校に導入されたのもこのころです。女子専門学校でも、従来の袴姿での通学に加えて、洋装での通学も認められるようになり、キャンパスは華やかな女学生の雰囲気に包まれました。

1937(昭和12) 海上学舎 高女15回

1937(昭和12)年 海上学舎 高女15回

1942(昭和17)年 高女運動会

1942(昭和17)年 高女運動会

迫り来る戦争の足音の中で

1945(昭和20)年 もんぺ姿で登校する学生

1945(昭和20)年 もんぺ姿で登校する学生

しかし、時代が戦争へと突き進む中で、学園の様子も一変していきます。 戦争が始まり戦況が悪化していく中で、制服であった袴や着物は贅沢品とみなされ、簡素なスーツの着用が義務付けられるようになります。さらに戦争が進行すると、スーツ姿での通学も禁止され、もんぺ姿での通学が義務付けられるようになりました。また、教育においても、勤労奉仕活動や報国隊活動により学問の機会が制限され、学問の内容に関しても戦時下のさまざまな制約が加えられるようになりました。

学校内の工場での勤労動員

学校内の工場での勤労動員

戦争が進行し、物資が不足していく中で、食料増産のために学園内外での農作業に従事しなければならなくなったほか、勤労奉仕の内容もそれまでの軽微な作業だけでなく土木作業などの過酷な重労働への奉仕が求められるようになりました。戦争末期にもなれば、勤労奉仕は勤労動員へと強化され、ほとんど毎日を軍需工場で働くことを強いられ、学校に通えない日々が続くことになります。

戦争の時代にあっても守り続けたもの

校長 伊賀駒吉郎

校長 伊賀駒吉郎

そんな時代にあっても、校長であった伊賀駒吉郎をはじめ、先生たちは生徒のことを常に思い、学問を受けられるよう様々な努力をはらいました。生徒たちの勤労動員の場所を学校内に設けた軍服工場に変更するように働きかけ、各地の工場に分散させられた生徒を学校へ呼び戻し、作業の空き時間や休日を使って授業を行いました。

またほとんどの学校が軍国主義的な教育に染まっていく中で、さまざまな制約を受けながらもリベラルな教育への志を忘れず、敵性語として禁止されていた英語の授業も最後まで続けられていたといいます。このような努力により、戦時下においても樟蔭はその本質を見失うことなく、戦後には多くの生徒が学園に戻り、新しい時代を花ひらかせたのです。

この戦争では、幸いにも樟蔭のキャンパスに直接的な被害はありませんでしたが、大阪市内の市街地は甚大な被害を受け、樟蔭に通っていた多くの生徒の家屋が焼失したほか、生徒たちの家族、親戚、友人を失うなど、学園にも大きな傷跡を残しました。

百年の歩み

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